私感

予想通り第2楽章関連が一番長かった・・・交響曲の第2楽章というのはたいていの場合穏やかなものなのだが、本作はそれに加えてバレエ音楽ばりに劇的で美しい、ロマンあふれる造りになっている。しかも予想外の仕掛けまであり、いろんな意味で面白いし、美しいのだ。正直、俺の少ないボキャブラリーではあの第2楽章の圧倒的な美しさを語り尽くすことができないし、それを突如押し流すあの展開についてはトラウマになるかとさえ思ったもので。(ホントに予告ナシでいきなり来るのでインパクトはかなりある)でも、あのクライマックスの展開は何度聴いても飽きが来ない。それほどまでに、壮絶なまでに美しいのだ。俺の少ない経験値で言うのもなんだが、最も美しい交響楽の一つではなかろうか。何度か聴き直していて思ったが、これはまるっきりバレエ音楽のノリだ。
実は、俺は最初2楽章までしか知らず、後に国営放送FMでその全貌を知ってからこの曲にこだわるようになったのだが、「全体を一つのメロディが支配する交響曲」という本作品の構造に着目すると、チャイコフスキー作品の持つ劇的な性格がここにも見えてきて興味深い。この曲の場合は全体の一貫性というか、4つの楽章があたかも一つの物語であるかのように並んでいる。それは例えるなら、絶望的な運命に倒れた者が愛と悲しみの紆余曲折を経て再び立ち上がり、その運命に勝利するまでの壮絶な物語。終楽章の怒濤のクライマックスなどはまさにそれで、最終局面前の全休止に至るまでの流れは生死を賭けた戦いの描写のようにすら聞こえる。(実際聴いて見ればわかるかも。討つか討たれるか、というような決死のシーンが思い起こされる、はず)
「あのメロディ」に始まり「あのメロディ」に終わる、という一貫性には上述の様な物語性を感じるし、第2楽章の極限まで高められた美旋律などは数々の交響曲、協奏曲、バレエ音楽の作曲やロシア民謡への傾倒などの積み重ねの果てにあるチャイコフスキー流の美学の完成形だとも思える。「悲愴」にはそういう側面はない(ゼロではないが)ことを考えると、この曲こそがチャイコフスキーらしさ(「ロシアらしさ」ではない・・・チャイコフスキーはロシア国民楽と西欧的サウンドの中間的な作風の持ち主とされるので)の極致なのではなかろうかと思う。全作品中でもかなり後のほうの作品(作品64。ちなみに最終作「悲愴」は作品74)だけに、もう「行くところまで行った」曲なんじゃないだろうか。いろんな意味で。
余談だが、チャイコフスキー作のバレエ音楽「眠れる森の美女」の中にはこの第2楽章のクライマックスとほとんど同じ盛り上がり方をする曲が存在する。書かれた年代が近いせいだろうか、作曲者自身もよほど自信があったのではなかろうか。実際壮大かつ華麗であり、その美しさは特筆モノだ。あっちは「第5」と違っていきなりズドンなんてことはないしね。
上の解説では第2楽章のものが一番長いが、最終楽章終盤の展開の凄まじさ、勇壮さはやはり外せない。