種とファスナーと2012。

女性ファンというものがキライだと思ってしまうことがある。キャラ萌えのファンは特に。
見かけ上のキャッチーな部分がよければ、作品の質は問わないという人をしばしば見かける。最近そういう女性ファンが増えた。そういう人たちが、表面だけ見て傑作だなんだとはやし立てるのを見るたびに、イヤな気分になる。

種(機動高達SEEDな)とかファスナー(「ファフナー」を指す俗語)のファンにおいて目立っているような気がするが、きっとそれは作品のお粗末な出来に反比例した人気故だろう。
高尚な作品であるかのように振る舞い視聴者を釣って味方につけ、強力な宣伝材料をそろえて「大本営発表」で世間を欺く。そして、浅はかな女どもが群がってご大層なことを言ってのける。それも「言論と思想の自由」を旗印に掲げてだ。悪意はないが、自分たちがしていることの意味を理解していない。ある意味とてもタチが悪い。

8年前、「サイキックフォース」という対戦格闘ゲームがあった。システムは一見斬新に見えるが実はそうでもなく(ついでに言うと言うほど優れたゲーム性を有してもいない:ゲーム性では「バーチャロン」に似た欠陥を持っている)、キャラクター人気に支えられて好評だったシロモノ。タイトーは2年後に続編「サイキックフォース2012」をリリース、根本的にゲーム性は変わっていないがこれまた好評。どうやら雑誌(メスト?)の人気投票で「ストIII」などの秀作を破ってしまったらしい。

ゲーム性もそうだがストーリー性などでも結構お粗末だ。対戦前後にデモが入るという程度の造りで「ストーリー描写が豊かになっている」と言われたことがあったがさすがにそれはネタだろうよ、と思ったら本気だったらしいので、キャラの魅力という表面上のウリがそこまでの威力になる時代の到来を感じてしまったり。

「斬新なゲーム性」を謳い文句にして本作を褒め称えるファンの多くが、俺が知る限り女性だったが、では本作が企画当初の姿、すなわちロボットアクションとしてリリースされていたらどうだっただろうかと問うたこともあった。そのときは「魅力的なキャラクターの存在を足がかりにすることでこの斬新なゲームを知ることができた」という意見をいただいて苦笑したものだ。では当初の予定通りロボゲーだったらやらなかったということなのだろう。要するに彼女らは認めたのだ。自分たちはまずはじめにキャラ萌えありき、と。ビデオゲームというものは、まずそこから始まるべきであると言ってのけたのだ。そういうものが天下を取り、自由の旗のもとに正義を標榜する現実。あの敗北感を忘れることは出来ないだろう。

種やファスナーの人気は、その再来を思わせた。しかも今度は「サイキックフォース」の時を上回る規模でやってくる。世界が女性の論理で動いている今日この頃だが、ヲタクコンテンツも例外ではない。レベルの低い文芸をもっともらしい理屈で塗り固め、甘い飴でコーティングした麻薬のような代物。ファスナーはまだ規模が小さいがXEBECの「自信作」、種は曲がりなりにも「ガンダム」だ。そしてこれら作品のファンはそこに何かを見いだしたように振る舞い始める。特に種が酷く、理由の如何を問わない「戦い」の全否定など、根拠の薄い左翼めいた理屈(例えるなら朝日新聞のような)を振りかざす愚者まで現れるようになった(恐ろしいことに新聞に反戦投稿する者まで現れている)
さらに、「勝てば官軍」とばかりに批評・批判を全力粉砕するものも出現。種公式BBSなど一時期は論理的な評論さえ抹殺していた。
正常な世界ではない。断じて違う。そのことに気づいている人間も少なくないはずだが、それなら一念発起して抵抗活動くらい起こってもいいんじゃなかろうか・・・?なんで表立った反論勢力が出てこないんだろうか。それとも俺が知らないだけ?
ともかく「サイキックフォース」の悪夢再び、しかも今度は群れで襲ってきている。UIMSかはたまたサディーンかという勢いである(イクシオンのやりすぎ・・・ニュアンス的にはギャラガが一番似ている気がするが)

・・・少し前にXEBECのBBSで見かけた投稿に曰く「批評はみんなを悲しませるだけ。そんなことはやめてファフナーの良いところを探しましょう、無理矢理にでも・・・(大意)」ぞっとした。まるでXEBECの犬ではないか。

もはや正気の沙汰ではない。俺はそういう風に思考を停止して生きるブロイラー化したヲタクどもを、同じヲタクとして心の底から軽蔑しようと思う。救いの手をもはねのけてくれた以上、もう他に考えようがない。