「戦争の犬たち」のこと

この頃思うことがあったので、おさらいとして書き出してみる。
フレデリック・フォーサイス原作、監督はジョン・アーヴィン、主人公・シャノンにクリストファー・ウォーケン
アフリカの小さな独裁国家・ザンガロに、プラチナ鉱脈があることを知ったある企業があった。企業のエージェントであるエンディーンは、この鉱脈の独占採掘権を手に入れるために腕利きの傭兵・シャノンを雇い、ザンガロに潜入させ情報を得ようとする。
ザンガロの大統領であるキンバによって独裁制が敷かれている現状では、企業によるプラチナ鉱脈の確保はできない。そこで、かつてキンバと政権を争った軍人・ボビー大佐を担ぎ上げて大統領の座を約束し、それを傀儡として企業がザンガロの資源を意のままにしようと企む。そして、そのためにはキンバ大統領の政権を転覆させなくてはならない。
キンバ大統領はクリスチャンだが、その思想にはある種の歪みがあり、神への祈りとともに大統領の栄光を称えさせるという狂的な独裁者だった。

シャノンはザンガロ視察の際、案内役の女性と懇意になり、自分の正体を隠しつつ彼女の案内で国内を視察するが、自室で突如憲兵によるリンチを受け、拘留されてしまう。
全身に無数の傷を負った彼は、その治療のためにやってきた医者・オコエ博士と出会う。シャノンもオコエの噂は耳にしていた。ボビー大佐、キンバ大統領らと政権を争った穏健派のドクターだった彼によって、シャノンは自分が国外追放の処分を受けることを知る。
アメリカに戻ったシャノンは、エンディーンに視察結果を報告し「現政権討伐はできない」と言い放つ。そしてエンディーンを追い払い、別れた妻と一夜を過ごす。その夜目を覚ました彼は、元妻が自分を置いて帰ってしまったことを知り、それをきっかけにある決意をする。

シャノンはエンディーンの依頼・・・すなわち、ザンガロのキンバ政権の討伐作戦を行うことを引き受ける。そして彼は「指定の時間までに官邸を制圧するから、時間には官邸に来ること。1分でも遅れたら全ての権限をオコエ博士に返す」と宣言する。

かつての傭兵仲間を集め、50人の精鋭兵と数々の武装を用意したシャノンは、夜の闇に紛れてザンガロの大統領官邸周辺に極秘裏に部隊を進める。そして奇襲攻撃を行い大統領官邸を火の海に変えていく。ザンガロの防衛戦力を蹴散らした後、シャノンは単身官邸の奥へと乗り込んでいく。その奥には、莫大な金を仕舞いこみ、一人脱出を計ろうとするキンバ大統領の姿があった。
金を差し出して命乞いをするキンバを虫けらのように殺し、さらに寝室に飛び込むシャノン。怒りに身を任せ、切り裂くような連射をベッドに浴びせる彼の向こうから、あの案内役の女が現れる。何もかも裏で仕組まれていたことを改めて知ったシャノンは、エンディーンとボビーの到着を待つ。
凄まじい数の死体の山に顔をしかめながら、エンディーンとボビーが官邸に現れる。二人は、大統領の執務席に座るオコエと、そのそばで苛立たしげに待ち構えるシャノンを見つけ「何故私の知らない男が大統領の席にいるのか?ザンガロは我が社が買い取ったのだから出て行け」と問い質し、ボビーも「大統領は私だ」と主張する。
シャノンはおもむろに拳銃を取り出し「この国は売買禁止になってるんだ!」と言い放ちながらボビーを射殺する。銃を捨て、死んだ仲間の死体を乗せたジープのキーを回すシャノン。
ザンガロがその後どうなったかは語られないが、シャノンがオコエに政権を渡し、エンディーンの計画を無に返したのは、身勝手な愚か者どもの傲慢に対する苛立ちの現れだったのだろう。
そして彼らは、戦場を去っていく。

所感

地味な映画ではあるんだが、俺はこれが結構好きです。何と言ってもこの結末。シャノンは何故ボビーを殺したのか。
タイトルのとおり、これは力を持つ人間たちに行使される「犬」たちの物語である。だが、果たしてシャノンが犬だったのかどうかは定かではない。くだらないエゴのために走らされる筋合いなどないというシャノンの態度には思うところがある。正義などというものではないが、ただひたすらに、身勝手で偉そうな奴ら(この場合エンディーンとその企業)が気に入らなかった、というのが実情だろうことは容易に想像できる。
無知な人間がエゴを振りかざし、傍若無人に振舞う様子にはイライラさせられる。その点で、最近個人的に思うことがあるのだ。

作品としては、キンバのキャラ立てが弱いのが問題かもしれない。ただ、テーマを考えるとそれは欠点にはならないし、気にすることでもない。それと、最後のボビーを射殺するくだりから官邸を出て行くまでの流れにおけるシャノン役のクリストファー・ウォーケンの無常感を感じさせる顔がいい味を出している。
古い作品ではあるが、結構オススメです。